2019年12月26日

三度

仏の顔も三度は、三度目には怒られるのだそうだ。
それはそうで、三度も同じドジを踏まれればそれは我慢できようはずもない。
だから三度目には怒られる道理だ。
 
三度目の正直と言う。
初めとその次はダメでも三度目には思い通りの目が出るのだから、ワタシの来し方に較べればまだまだ甘いと言わざるを得ない俗諺である。


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落語のらくだに出てくる死んだらくだの馬の兄貴分は丁の目の半次で、たぶん丁半ばくちの丁の目張りなのであろう。
ちなみに、半次と書くと威勢がいいが、半二だと近松半二が思い浮かぶわけで、二の字の方がなんとなく色っぽい。
近松半二は本朝廿四孝や妹背山女庭訓など現代でも人気のある浄瑠璃の作者で、他に野崎村として知られる新版歌祭文や近江源氏先陣館も半二作で、人形浄瑠璃の竹本座全盛を彩った作者の一人である。

その近江源氏先陣館の八段目が盛綱陣屋で、この12月は三宅坂の国立劇場で松本白鸚が佐々木三郎兵衛盛綱を28年ぶりに演じた。

時代物は、人気がある狂言と言うとたいてい子供を殺す話で、この盛綱もそうだし、よく似た構成の熊谷陣屋とか寺子屋もそうで、こういう芝居はたいてい吉右衛門で何度か観ているのはもちろん播磨屋のお家芸だからだが、白鸚吉右衛門は兄弟でも持っている雰囲気が違っているからだろう。
もっとも、以前は幸四郎だった白鸚だって盛綱以外は何度か観ているわけで、ああ、ということは、盛綱はあんまり人気はない狂言なのかもしれないね。

実の子供が死ぬ熊谷と寺子屋は見えないところで死ぬのに対して、甥が死ぬ盛綱だけ子供の落ち入りのシーンがある。だからなおさら馴染めないのだけれど、一層哀れを誘うところでもあるのだろうか。
 
そういう、高麗屋のお芝居の巧さを楽しむけれどもちょっと我慢して勉強する芝居のあとに、この師走は松本幸四郎が主役を演じる蝙蝠の安さんという1931年以来の復活上演という実に珍しい芝居が配されていた。


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これは1931年初演、木村錦花による脚色物で、そのものずばりチャーリーチャップリンの街の灯の翻案である。
日本にフィルムが届く以前に情報を仕入れて脚色したものだそうで、街の灯の映画よりも早く上演されたというから、当時の歌舞伎の人気がなんとなく解る気がする。

詳しいことはこのリンク先に書いてある。
蝙蝠の安さん


12月25日はチャップリンの祥月命日とのことで、そのクリスマスナイトと言う、蝙蝠の安さんだけのプログラムを観たのだが、実はワタシはこれで三度目の蝙蝠の安さんで、同じ月の同じ狂言を二度観たことは何度かあるけれど三度と言うのは初めてのことで、そこまでものぐさなワタシに足を運ばせたのは何かということをテーマに一本くらいブログを書いても良いような気もするが、あいにくそれを書くほどの知識や分析力や洞察力や文章作成能力に欠けるので、書かない。


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ストーリーは街の灯そのもので、だからどうよと言う向きには、そもそも歌舞伎にはそういう翻案物は実にたくさんあって、落語が原作の「芝浜の革財布」や「人情話文七元結」や「眠駱駝物語」、狂言を取り入れた「身代座禅」や「棒縛り」、能を翻案した「勧進帳」、シェイクスピアものもあるそうだし、ごく最近ではアニメ翻案のワンピースやスターウォーズや風の谷のナウシカだってある。

面白ければそういうアイディアを貪欲に取り入れてきたのが歌舞伎なのだろう。
そもそも歌舞伎は、芸術とか芸能という要素ばかりでなく演芸的なるものも内包しているわけだ。


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それよりも。
なんでこの芝居に三度も出かけたか。
それは、初めて見た日の客席の隙間がたいへん気になったからだった。

国立劇場の歌舞伎は通し狂言が基本で、一つの狂言を発端から大団円まで演じるのが通例である。
歌舞伎座だとみどり公演だから時代物から中幕に踊りや松羽目物が入り二番目の世話物で閉じるようにすると、飽きの来ないダレ場の無い構成になり、時代・世話それぞれの人気役者を配することができるので客寄せも良い。
 
通し狂言だとほとんどが時代ものなので、どちらかと言うと単調な構成となってしまう。
目の保養ならどうしたってみどりの方が好ましい。
 
だから、こう言っちゃなんだが、国立のお芝居は面白くても地味な印象のものが多くて、空いた椅子も多いように思う。
ワタシはもうほとんど国立なので、切符が取りやすくて嬉しくもあり、でもこんなじゃ役者がやる気が無くなるんじゃないかとハラハラしたり、まったく余計なお世話でやきもきする。

だから多少空いているのは仕方ないけれど、いま観た芝居の面白さや役者と劇場の熱の入り方に較べて、なんという悲しい状態なのか、と思ったわけだ。
オレがどうこうできるはずもないが、ここは一番もう一回観に来にゃなるめえ、と見得をしてみたのである。



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あんなに面白いのに客席の笑いが薄い。
おかしいのに、笑いたいのに、周りの後押しがない、そんな気配がもどかしい。

それで一週後かの二度目、二度目だから上の階の席で観たけれど、周りの席がずいぶん埋まっていて、しかも笑いが厚い。役者の所作や言葉にはきはきと反応する感じだ。
これは間違いなくリピーターが足を運んでいるのに違いない。
そう確信した。

舞台では、歌舞伎のさまざまな作法が組み込まれた意欲的な演出が繰り広げられる。

 宙乗り
 せりの上げ下ろし
 簾内の浄瑠璃語り
 御簾を上げての三味線二丁の浄瑠璃 
 だんまり
 舟
 回り舞台
 振り落とし しかも浅葱幕ではない
 紙衣風衣装 しかも英語入り
 スクリーンプロセス
 着ぐるみの軽業
 引幕 

ちょっと他のあれこれが思い出せないけど、6月7月の高校生のための歌舞伎鑑賞教室よりもっと盛りだくさんに機能と演出を見せてくれて、これはすげえぇ、これだけでも観る価値あるわ、ってね。
どうやら、もともと少し長い台本に手を入れた際に、何でも彼でも切ればいいというのではなく、残したいエピソードは残して、しかし冗長ではない演出を心がけて工夫したということをトークショーで幸四郎が話していたけれど、つまりそういうためにありったけの技法を使ったわけだし、そういうことをいともやすやすとやってしまうのが歌舞伎と言う芝居の技量と言うことでもあるのだろう。


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蝙蝠の安さんと絡む久松町の大店のあるじ上総屋新兵衛は猿弥で、この二人の掛け合いでポンポン飛び出すアドリブが楽しいし、やっている方も楽しそうだからその気配がこちらにも伝わってくるからますます見ていておもろしくなる道理だ。
すると宗之助との遣り取りでも日替わりの台詞でまたうける。

つまり、いちいちの客席の反応が良くなっていたのだった。
そうなれば役者だって張り合いがあるというものだろう。

そうして三度目の今日は、もうほとんど満席の場内はレスポンスの良い笑い声で満ちて、観ているワタシもものすごく楽しかった。
安心してなおさらいっそう楽しかったのに違いない。

やっぱり思ったとおり尻上がりに客が来た満足感が、ただ観て笑って最後に胸が詰まってるだけのワタシにもあって、とてもとても嬉しかった。

三度観て本当に好かった。


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蝙蝠の安さんの芝居だけを見せるBプロと言うのがあって、初めの二度は盛綱もやるAプロだったけれど、クリスマスの今日はBプロにした。Bプロは毎週金曜日の晩とクリスマスイブとクリスマスに催された。

そしてイブとクリスマス二日間はクリスマスナイトと言うことでBプロのあとにアフタートークショーがあり、幸四郎が衣装のまま出て芝居作りのあれこれをインタビューされる。
たとえば、振り落としの紙衣風の落とし幕は初日七日前の稽古の初日に発注し、それでも舞台稽古には間に合ったと話したときはあちこちからええええと言う歓声が上がったりして、そういうのも楽しかったのですよ。


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おまけにクリスマスプレゼントまでもらって、結構な芝居見物だったとつくづく思った。
それに、好いお芝居が広まっていくところを看ることもできたし。

今度は88年も経たないうちに再演するといいね。
好い本は好いに決まってるって話だよなあ。



noonuki at 02:25|PermalinkComments(2)演芸・芸能 

2019年11月10日

今秋の今週

明日は半年ごとの検査。
今夜21:00以降検査終了まで食べてはいけない、ただし水とお茶は摂取可。
もちろんお酒も飲まなかった。
仕方ない。
人間ドックじゃないんだから、いつものオレを知ってもらえばいいんだ、なんて話ではないわけで。


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もう十日前になるのかな、調布の空にあった月。
それが今夜はこうなった。


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テレビで花束の話を視ている。
いつも楽しい番組だけど、今夜は花束なのでいつも以上に引き込まれた。

花束なんてずいぶん買ってないなあ。
直近はもう数年前、知人というほどではないほどの知り合いが出演するバレエで楽屋に贈った花束。
どんなのだったかなあと思いだそうとしても、まったく思い出せない。
間違いなく、今とはずいぶん好みが違っていただろうなあ。

あの頃は赤いバラが好きだったけれど、今はピンクが好きになったのは、つまり狒狒爺になったからだに決まってる。
バラを観に行ってもピンクばかり写してるもんなあ。
ピンク映画は観なくなったのにね。

ガッカリだ。


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番組にはすてきな花屋さんが次々に登場して、どこもぜひ行きたいなあと思ったけれど、遠いところは京都だったなあ、いいなあ、花を買いに京都へ。

でも問題は、花を差し上げたいという相手がいないってことだな。
なんだか高校生や大学生みたいだね。

仕方ない。
オレがオレに贈って好しとすっか。


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明日の検査の後、明後日は抜歯。
まさかこの年になって親知らずの連続攻撃を受けることになるとは思わなかった。
夏前に抜歯してホッとしたのも束の間で、ワールドカップがあったのでひと月以上だましだまし来たけれど、どうにもならなくなった。

今週は連日の医者がよいの予定で、気が重い。
でも仕方ない。

仕事が息抜きになる珍しい一週間になるわけだ。



まあ、いいです。


2019年11月09日

お、漆胡瓶

漆胡樽という井上靖の短編を読んだのはたぶん小学校を卒業するかしないかのころで、きっかけは誰でも同じで、しろばんばを読んだついでに井上靖を続けて読んだというくらいのことであったろう。
漆胡樽なんという不思議な名称、というより読みに喚起され記憶に留まったというべきかもしれない。

同じ著者に玉碗記というのもある。
これはやはり正倉院御物の、と御物なんて書いてしまうところが戦後生まれなのに我が指を疑うところで、実際のところ今は正倉院宝物と記されているのだが、たぶん井上靖のあれこれの中で、たとえば帝室林野局湯ヶ島営林署とか、小説の時代に合わせた呼称の一つとして脳の記憶をつかさどる細胞に刻まれてしまっているのだろうが、その宝物の白瑠璃碗というペルシャ伝来のガラス容器にインスパイアされたのだろう、白瑠璃碗そっくりのガラス碗が出土したというところから始まる短編で、こちらの方が小説っぽい。

どちらも、たぶん中学校に入ってから単行本の巻頭グラビアか、教科書か参考書か、あるいは歴史のグラフ本で写真を観ることになるはずだが、今と違い書籍雑誌の掲載写真の精度は高いはずもなく、それにたぶん白黒で、写真を観たからと言って概要が把握できるものではなかった。
それだけいっそう本物に対する憧れが強くなる道理だろうが、そうは言ってもなんとしても観たいと思うほど正倉院宝物を見物する機会は無かったので、どうせ観ることができないもの、という諦めのようなものがあったろう。

いつの頃か全く憶えていないが、正倉院の宝物一覧か何かを読んでいて、漆胡瓶という文字に目が停まった。
もちろん漆胡樽と間違えたのであるが、正倉院におしっこが二つもあることを知って、昔の人も案外面白いねと思った。
これももちろんなのだけれど、漆胡樽はシツコソンで漆胡瓶はシツコヘイで、シッコソンでもシッコヘイでもないと思うが、ワタシは長いことシッコソンにはシッコヘイと読んできたので、いまだにおしっこそんとおしっこへいなどと小学生同様の呼び方をしてしまう。
三つ子の魂百までという奴で、これはもう死ぬまで治らないと断言できるが、そういうことを断言してももう誰もあなこの正直者めなどと褒めてくれないことくらいは知っている。

漆胡樽は美津子さんに似てるね。


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上野の博物館で正倉院の世界という展覧会をやっているので、観た。

初めに行ったのは始まって間もなくで、この日に行かないと特別展入場券の期限が来てしまうという日だった。
平日だったので意外に混んでなく、人気物の周りの塊を上手くかわせば、そこそこじっくり観ることができた。
ワタシは双眼鏡のくせに50cmまで近づけるという秘密のギミックを持っていて、これの良いところはモノキュラーのように、あんたは覗き魔か、というような格好をしないで済むところで、これの悪いところは使わないときはたいへんに邪魔なことと、ソフトケースがしばしば失踪することで、それは本当のことで、奈良の国立博物館でも上野の国立博物館でも、いなくなって焦った。よほど歴史的文物に興味があるのだろう。
ちなみに上野の博物館では扇子もいなくなる。
宝物好きとはセンスが良いね、などとオヤジってる場合じゃない。

だから、ちょっとした人の壁の隙間を通して人の裏から対象を観ることができるので、その真摯な姿はまるでストーカーのようだ。
ときどき突然目の前が真っ暗になるのは、宝物と双眼鏡の対物レンズの中心軸を結ぶ最も短い線分の間に人が割り込むからである。博物館はみんなのものだから仕方ない。

入ってすぐの平螺鈿の円鏡はそうして観ることができた。

これは八角鏡。


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そうして美味しそうな碁石や、なぜわざわざ鳥の羽で、絵ならまだしも文字なんぞを飾るのか理解できないものや、形だけ見せたってにおいをかいでもらわないと意味がないだろうと思うところの香木群や、一目観ておおこれはフェルトだと判る絨毯や、そういうあれこれを観て後、マーブルチョコの碁石は欲しいけどなんでこんなにバカ高いのかなとブツブツ言いながら売店奥のカメオのような手の込んだ細工物を観ていたら、これは奥さんにプレゼントすると喜ばれますよ、と声をかけられた。

ワタシがそのような幸せな人生を歩んでいる人物と勘違いするあたり、あまり人を見る目がないのだろうと思った。


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五弦琵琶は新しいのと古いのと両方置いてあった。
これは決して、金の斧と銀の斧と、お前が落としたのはどっちの斧だね、と訊かれるような代物ではなくて、本物と、こないだ作った模造である。
模造を作る過程をメイキングビデオにしてループで流しているが、これは良いね。
各工程のたいへんさがよくわかるしリアルで面白い。

科学博物館の展覧会でも映像をたくさん作って見せているが、これは今後の主流になるのだろうね。

先に薩摩琵琶だったか豊後琵琶だったかの演奏を聞いたことがあるけれど、ああした演奏をするとすれば、このラクダはすぐに欠けちゃうんじゃないかな、
ラクダはすぐに剥落だ、
なんてことを思うが、演奏用ではなく献上用の鑑賞品だったのだろう。



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しかし、実際のところ、本物は古いから価値があり、伝世品だからなおさら貴重であり、時代がついて一層ありがたみが増すということだろうが、
模造だってすごいものですよ、これは。
現代工芸品と種明かしをして売ったって、1億円じゃ済まないんじゃないだろうか。


そうして意気揚々と出てきたが、あれ?漆胡瓶はどうした?

キャベツはどうした、と同じだね。



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漆胡瓶は後期展示である、と書いてあった。白瑠璃碗も後期展示である、と書いてあった。
それでもう一度行った。

漆胡瓶は想像していたよりも丸く、思い込んでいたよりも凛々しい姿だった。
傍に、いつもなら写真撮影が可能な竜首水瓶も置いてあるが、もちろんこの会場では撮影不可。
これは法隆寺宝物館で写した画像なので為念。


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しかしこうして並べると、漆胡瓶はいわばガバドンAで、竜首水瓶はガバドンBだな。

古人ってのはなかなかセンスがいい。


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四弦の琵琶もあって、こちらは胴の絵の復元がとてもきれいな色で、こういう復元品模造品を併置するのは本当に良い方法だとありがたかった。

が、この琵琶用の象牙のばちがあって、
前期は本物、後期は模造複製なのだけれど、擦り減ったところまでそっくりに復元してあって、
はてな、
と思った。
象牙のばちは保存状態も良く、復元品と何が違うのか判らない。
強いて言えば、擦り減った部分の再現性に現代美術家の技量が発揮されたと、それを観るための復元なのだろう。





さて、白瑠璃碗だ。

細い光を当てると切子の円形のくぼみがきれいな反射を映し出して、意匠性の高さと切子技術の凄さに息を呑んだが、果たして当時の入光環境はどんなものだったのだろうかと想像してみる。

もちろん太陽光がうまく切り取られて碗に当たれば同じような珠を散りばめたような光の粒が全体に浮かんだのだろうが、よほど条件が良くなければああは見えないだろう。
その光を欲して御殿の明かりを調整できる立場の人だったはずだけれど、今ワタシは間抜けな路傍の石にも劣る年寄りであるが、LEDのおかげで高輝度の直進光を手軽に当てた最高の輝きを観ることができる。

物さえ残っていれば、技術の進歩と普遍化のおかげであの時代よりもっと贅沢なことを味わえる道理で、まあ、ありがたいことではあるね。


そうして、21世紀の今を生きていられることの幸運さに感謝して博物館を出た。

普段のワタシにも似ず殊勝だね。



まあ、いいです。

noonuki at 11:16|PermalinkComments(5)眼福